「死後の世界は“想念”がすべてを支配する」

道 星空 夜明け

幽界とは何か。想念が創る死後の世界

霊界とは、ただの死後の世界ではありません。そこは、「魂の本性」がそのまま現実となる場所です。肉体を離れた霊は、もはや外見や言葉で自らを装うことはできません。そこに映し出されるのは、生前の想念と行いによって形づくられた“魂の真の姿”です。

地獄では、鬼が亡者を責め苛むという、現世で行われた残虐な行為が絶え間なく繰り返されいます。

中でも印象的なのが、「臼で搗き砕かれても、やがてまた元の人間になる」という情景です。これは、霊界が物理法則ではなく、想念によって本質的に支配される世界であることを示しています。いくら肉体を砕いても、本人の想いが変わらなければ魂は元の姿に戻ってしまいます。

霊界の刑罰は、単に肉体を苦しめるだけでなく、魂の奥底にある想念そのものを変容させることが求められています。

「悪」はすでに自分自身を罰している

そもそも、「悪」と「災禍」「罰」は、互いに切り離された存在ではありません。悪の本質には、自他に苦しみを与える性質が宿っており、その種は、やがて自らのもとへ災いとなって返ってきます。

人は、悪しき行いをなした瞬間に、すでに“報い”を受けていると言えます。

罪悪感や信頼の喪失、孤独、恐れ―

こうした内面的な苦しみは、たとえ社会的に裁かれなくても、魂に深く刻まれていきます。外からは見えにくいものの、大本ではこれを「めぐり(罪障)」と呼び、魂にとって極めて深い罰として積み重なっていきます。

そして、この「悪」には偽善も含まれます。たとえば、一見、善意に見える行動でも、その動機が自己の利益や支配欲に根ざしているなら、それは霊界において、その偽善性が魂の姿として露わになります。

霊界は、真実から目を背けることができない世界です。

善悪正邪の分水嶺は「今ここ」に

私たちは日々、善と悪、正と邪の分水嶺に立っています。

利己か利他か、誠実か偽りか―

その判断の積み重ねが、魂のあり方を形づくっていきます。

霊界は未来に突然訪れる場所ではなく、「今ここ」からすでに始まっています。

私たちが何を思い、どう選び、どう生きるか―

そのすべてが、霊界の兆しを形づくります。霊界とは、この現実世界の延長線上に存在しています。

日常の小さな選択―

怒りを手放すか、優しい言葉をかけるか―

そのたびに、魂は少しずつ進むべき方向を選んでいます。

魂の自由と因果の理

『霊界物語』によれば、人間の魂が堕落して「根底の国」へと落ちていくとき、その苦しみは計り知れないものだとされています。その痛みは、まるで難産の苦しみのようであり、時にはそれ以上だと表現されることもあります。なかには、二度と浮かび上がる希望を持てないまま、無限の苦しみに沈んでしまう魂もあると示されています。

だからこそ、人間は未来の世界――すなわち死後の存在を理解しなければ、真の道義を実践することはできません。善悪や正邪、努力や怠惰には必ず応報があるという理を深く悟ることが求められます。

私たちは、善を選ぶ自由も、悪に流される自由も、等しく与えられています。しかし自由には必ず責任が伴い、その選択によって魂の未来は大きく変わります。だからこそ、「今ここ」での想念と行動が、やがて霊界での姿を決定づけるのだということを、深く心に刻む必要があります。

地獄とは、神さまに強制的に連れて行かれる場所ではありません。自らの想念と行為によって、自分自身を沈めてしまうところです。その逆もまた真実であり、私たちは自らの魂を光へと向かわせることもできます。

現在、多くの人の魂が分水嶺に立たされています。善悪・正邪の岐路に立っているのは、他でもない私たち自身です。進む方向は自由ですが、その責任も自らが負わなければなりません。どちらの道を選ぶかによって歩む世界は大きく変わり、その選択が魂の未来を形づくっていきます。

だからこそ、日々の生活において心身を清らかに保ち、霊主体従を実践し、争いの種を抱かず、他者にも抱かせないよう努めることが大切です。さらに、常に天下公共のために心身を捧げ、努力を積み重ねていくことが求められます。

大本のお示し

一つの巨大な洋館が、厳然として高く雲表にそびえ立ってをる。門口には厳めしき冥官が鏡のやうな目を見張って、前後左右に首をめぐらし監視してをる。部下の冥卒が数限りもなく現はれ、各自に亡人を酷遇するその光景は筆紙につくされない残酷さである。自分は大幣を振りながら、館内へ歩をすすめた。冥官も冥卒も、ただ黙して自分の通行するのを知らぬふうをしてゐる。「キャッキャッ」と叫ぶ声にふりかへると、たくさんの婦女子が口から血を吐いたり槍で腹部を突き刺されたり、赤児の群に全身の血を吸はれたり、毒蛇に首を捲かれたりして、悲鳴をあげ七転八倒してゐた。冥卒が竹槍の穂で頭といはず腹といはず、身体処かまはず突きさす恐ろしさ。血は流れて滝となり、異臭を放ち、惨状目もあてられぬ光景である。(『霊界物語』第一巻 出口王仁三郎著)

さうしてこの橋には、罪人橋と橋詰に立札が立つてゐる。その長さは目の届かぬばかりほとんど数百町におよんでゐる。さうして橋の幅がわづかに一尺ばかり、ちよつと体の平均を失つたが最後、真逆様に百尺以上の川に落込まねばならぬ。さうしてその水の深さは、地球の中心に達してゐると伝へられ、幾千万丈の深さとも分らない。この橋には欄もなく、加ふるにヒヨヒヨとして上下左右に揺り動く、実に危険な橋である。さうして橋の下には、激流が飛沫をとばし、赤黒い汚穢の水が流れてゐる。さうして、なんとも形容のできぬ怪物がたくさんに棲み、橋の上を通行するものが過つて落ちて来るのを、大口を開けて待つてゐるその恐ろしさ。一目見ても身慄ひするやうである。さうして橋の上には、膚を劈くごとき寒風吹き、何ともいへぬ厭らしき声、八方より聞えて来るのであつた。(『霊界物語』第四十八巻 出口王仁三郎著)

「地獄の絵に、鬼が人間の舌を抜いたり、人を臼に搗(つ)いたるするところがありますが、あれはほんとうですか」
「ほんとうだ。この世におこなわれて来たあらゆる残虐なことは、みな地獄において絶え間なく行われている」
「臼につき砕かれたならば、その人は粉になってしまうじゃありませんか」
「しかし、やがてまた元の人間になるのだ」「どうしてですか?」
「いくら外的に、強いて一時形を打ち砕いてみても、想念を左右するだけの力がない間は、相手の想念は依然としてそのあまであるからこちらの、手がゆるむと同時に、また元の形をとるのだ、霊界は本質的に想念の世界なのだから、これは、現界においても同じことであって、いくら他から強いても、本人の意向が内から変わって来ないかぎりはダメのことだ。いな、かえって、一層決意を強めるだけのことになるのだ。それで霊界では、なるべく本人の意志のままにやらせてみて、内的に、なるほどと得心のゆく時を待って、上へ引きあげてやるのだ。内省力の強い団結力のある霊魂は、ほんの少しの事件からヒントを得て悟ってゆき、ズンズン向上してゆくが、内省力の弱い、実行力に欠けた霊魂は、いつ迄もいつまでも、同じつまらない状態にウジウジしているのだ」
「そういう者に対しては、神さまは打ち棄てておかれるのですか」
「全然打ち棄てておくわけではないが、いま、声をかぎりに救いを叫んでいる者を、まず先にするのは当然だ」
(『信仰覚書』第六巻 出口日出麿著)

しかしながら、地獄の団体に籍をおいてゐる悪霊すなはち副守護神は、この暗黒にして悪臭紛々たるを、此上なく悦び楽しむがゆゑに、喜んでこれを求め、勇んで地獄の入口に飛びこむものである。世間のおほかたの人間が、おのれの自性に属する悪を喜ぶごとく、死後霊界に至れば、その悪に相応せる悪臭を嗅ぐことを喜ぶものである。この点においては、彼ら悪霊の人間は、貪婪(どんらん)あくなき鷲や鷹、狼、虎、獅子、豚の類に比ぶべきものである。彼らの精霊は、腐つた屍骸や堆糞等の嘔吐を催さむとする至臭至穢物を此上なく喜び、その臭気を尋ねて、糞蠅のごとくに集まつてくるものである。これらの人間の霊身は、高天原の天人の気息や、芳香にあふ時は、内心の苦しみに堪へず、悲鳴をあげて泣き倒れ、苦しみ悶えるものである。実に大本開祖の神示にある、身魂相応の神の規則とは、実に至言といふべしである」(『霊界物語』第四十七巻 出口王仁三郎著)

神の言葉を売薬の能書くらゐに心得、何事をも信ぜず、また自己を外にして徳を行ふの念なく、人の見ざるところにおいて善をなすことを忌み、悪を人の前に秘し、善はいかなる小さきことといへども、必ず人の前に現はさむことを願ふ。ゆゑに彼らがもし万一善なる行ひをなしたりとせば、それは皆自己のためになすところあるによる。また他人のために善を行ふことあれば、それは他人および世間より聖人、あるいは仁者と見られむことを願ふに過ぎない。かくのごとき人のなすことはすべて自愛のためである。自愛はいはゆる地獄の愛である」(『霊界物語』第四十九巻 出口王仁三郎著)

根底の国へ落ちて行く人間の霊魂は非常な苦しみを受けるもので、丁度人間の難産のやうなもので、産児の苦痛以上である。中には死産といつて死んで生まれる胎児のやうに、もはや浮かぶ瀬がない無限苦の地獄へ落とされてしまふのである。ゆゑに人間は未来の世界のあることが判らねば、真の道義を行ふことができぬものである。神幽現三界を通じて、善悪正邪勤怠の応報が儼然としてあるものといふことを覚らねば、人生の本分はどうしても尽くされないものである。(『霊界物語』第十九巻 出口王仁三郎著)

東海教区特派宣伝使 前田 茂太