「信仰は梅の花にならうべし」

梅の花

出口王仁三郎聖師は、「信仰は梅の花にならうべし」と述べています。

この一言には、時代がどれほど移り変わろうとも揺らぐことのない、信仰の本質が端的に言い表されています。

現代は、成果や評価が目に見える形で求められやすい時代です。宗教においても、活動の多さや外形的な盛り上がり、あるいは信徒数といった数値が、あたかも価値そのもののように語られる場面が少なくありません。
しかし出口王仁三郎聖師は、まず「人に見せんがために、知られんがために善をなすなかれ」と、そうした姿勢を厳しく戒めています。

善とは、評価を得るために行うものではありません。人の目に触れず、知られもしないところで誠を尽くすとき、その行いは神さまの御前に確かに積み重ねられていきます。そしてやがて、しかるべき時に、しかるべき形で世に現れてきます。

出口王仁三郎聖師は、「人の知らんところで行ないし徳は、神これを見そなわしたもうゆえに、神より報わるべし。神からの報いは万倍の報い、人からの報いは、それだけの報い。」と示しています。

信仰とは、本来、そのような静かな陰徳の積み重ねによって成り立つものです。

また聖師は、「何事も神にまかせよ」とも示しています。人はつい、先の見えない不安に心を奪われ、衣食住までも自分の力だけで確保しなければならないかのように思いがちです。

しかし、生命を養う根源は、人の計らいをはるかに超えた神さまのみ心にあります。鳥や獣でさえその生命を保っている事実を見つめるとき、誠の道を踏み外さない限り、神さまが必要なものをお与えくださらないはずがありません。その深い神さまへの信頼こそが、信仰者の心を支えてきました。

さらに出口王仁三郎聖師は、「桜のごとく一時のがれの短き栄を捨てて、とこしえの春を迎えて誠の花の栄を望むべし。」と示されています。
一瞬の称賛や目先の成果は、確かに華やかです。しかし、それは桜の花のように、はかなく散り去っていきます。それよりも、目立たずとも永く続く誠の行いこそが、とこしえの春へとつながる宝となります。

その象徴として示されるのが、梅の花です。
梅は、派手さはなくとも、年を隔てても変わらぬ香りを放ち、寒さの中で花を咲かせ、やがて実を結び、世の役に立ちます。
昔も今も変わらず、神さまの霊に満ちたその姿に、出口王仁三郎聖師は、信仰者のあるべき姿を重ねました。

信仰とは、目立つことではなく、すぐに結果を求めることでもありません。
人知れず陰徳を積み、すべてを神さまに委ね、やがて時を経て実を結ぶ――。
そのような姿勢こそ、「信仰は梅の花にならうべし」と示された、信仰の真のあり方ではないでしょうか。

現代に生きる私たちは、つい「今、どう見えるか」「評価されているか」に心を奪われがちです。
だからこそ、この出口王仁三郎聖師のお示しは、今なお私たちの足元を静かに照らし続けているように思われます。

鳳雛館室内からの梅園

大本のお示し

人に見せんがために、知られんがために善をなすなかれ。人に見られず、知られざるようにして善をなすべし。隠れたるところにて善をなすときは、神よりこれを世に広くあらわしたまいて、大いなるむくいを下したもうこと疑いなし。(『道の栞』出口王仁三郎著)

何事も神にまかせよ。由なきことに案じわずろうことなかれ。着るもの食うものは、人の生命をまもるために、天の授くるところなり。衣類は肉体を保たしむるために、神の御心を用いて造りたもうところなり。ゆえになんじら、誠の道によりて求むるにおいては、天これを与えたまわざることあらじ。鳥けだものといえども、よく肉体をやしない生命を保ちおるにあらずや。(『道の栞』出口王仁三郎著)

なんじら天国に宝を積みて、天国のかぎりなき栄を得よ。桜のごとく一時のがれの短き栄を捨てて、とこしえの春を迎えて誠の花の栄を望むべし。(『道の栞』出口王仁三郎著)

梅の花は年を隔てて香しく、むかしも今もそのままに神の霊にみちて、妙なる香をはなち、その花はさかりも長く、その実は世の裨益をなすものなり。信仰はすべて梅の花にならうべし。(『道の栞』出口王仁三郎著)

難儀なものを助けたとても、かならず人の前にて、ほら貝を吹くなかれ。人に知られたものは、もはや報い来たれるなり。(『道の栞』出口王仁三郎著)

人の知らんところで行ないし徳は、神これを見そなわしたもうゆえに、神より報わるべし。神からの報いは万倍の報い、人からの報いは、それだけの報い。(『道の栞』出口王仁三郎著)

東海教区特派宣伝使 前田 茂太