先日、このような問いをいただきました。
「現界での修行が大切だと聞いていたのに、出口日出麿尊師の『現界の一日は霊界の一分時にも当たらない』というお示しを読むと、現界での苦労がひどく虚しいものに思えてしまって……」というものです。
確かに、霊界の壮大さに比べれば、現界の営みは瞬きの一瞬にも満たないように感じられるかもしれません。出口日出麿尊師は、その著書『信仰覚書』の中で、次のように記しています。
「現界において得たる体験と知識は、霊界に入りて働くための唯一の資本なり」
「現界の一日は霊界の一分時にも当たらざる」
このお示しを素直に読めば、現界がひどくちっぽけなものに思えるかもしれませんが、出口日出麿尊師が本当に伝えようとされたのは、むしろその逆の意義ではないでしょうか。
まず心に留めたいのは、現界の体験が「唯一の資本」であるという言葉です。
霊界での活動が現界のそれをはるかに凌ぐとしても、その出発点となる資本は、この肉体を持って生きた日々の中でしか積むことができません。どれほど霊界が広大であっても、そこへ持ち込める荷物は、現界で何を思い、何を行い、どのように魂を磨いたかという経験だけです。
だからこそ出口日出麿尊師は続けて、「ゆえに人は死の瞬間まで修養せざるべからず」と、今を生きる切実な重みを強調しています。
ここで忘れてはならないのが、「今を生きる修養」の中には、愛する人との別れという、現界において最も辛い悲しみを乗り越えることも含まれているという点です。
大本の教えにおいて、肉体の死は決して「滅亡」や「死去」ではなく、永遠にわたる進歩の一段階であり、ただ「所在と立脚地を変更した」に過ぎないと説かれています。私たちは肉体の死と同時に魂(精霊)は霊界へ復活します。
そして、霊界の時間的感覚から見れば、先に霊界へ帰った人にとっては、現界に残された私たちとの別離の時間は、決して長いものではありません。現界での数十年は、霊界においてはごく短いひとときに過ぎず、やがて再び出会う時も、まるでしばしの間をおいて再会するかのように感じられます。
まるで修学旅行や出張から戻ってきた人と再会するかのように感じられます。
このように考えると、現界における別れの悲しみもまた、もう二度と会えないというような別れではなく、再会へと至る過程の一部であり、その悲しみの中でなお愛を保ち、相手を思い続ける心もまた、魂を成長させる歩みの一つとなっていきます。
現界での人生は本当に短く、健康に動ける時間は80年にも届かないものです。その限られた時間の中で、私たちは何を積み重ねていくのでしょうか。
日々、苦労も多く、思い通りにならないことばかりです。しかし、そのような日々の中で、人を思いやり、善をなし、悩みながらも神さまに向かって歩もうとする一歩一歩が、霊界における生命の糧となります。
出口王仁三郎聖師は『出口王仁三郎全集』の中で、昔の高僧の言葉を引き「娑婆の一日の化益(けやく)は、未来永劫の極楽に勝る」と述べています。「化益」とは、人々を道に導き、利益を与えることを指します。
不自由な現界だからこそ、苦しみの中でなお善を選ぶことに、霊界の安楽な環境では得られない計り知れない価値があると、聖師は説いています。
では、霊界とはどのような世界なのでしょうか。
出口王仁三郎聖師は『霊界物語』において、「霊界の一日は現界の一年に当る」と示しています。
そこでは時間も空間も現界とは全く異なる次元にあり、例えば天界の様子については、「人間が数時間費やして語る内容をわずか二、三分で、数十頁の原稿で書き表せないことをわずか一頁ほどで理解し合える」精妙な想念の世界であると描かれています。
だとすれば、『信仰覚書』にある「霊界一日の修養は、現界百年の修養にもあたる」という言葉は、現界の修行を軽んじる意味ではありません。むしろ、現界での数十年という短い期間を基礎として、いかに精妙で高次元な永遠の生へと飛躍できるかという、現界人生の驚くべき効率性と尊さを示したものと受け取ることができます。
死後になって後悔しても、現界のようには償いも実践もできません。
また聖師は、「最後の一念」だけで死後が決まるのではなく、「平素の愛の情動」がその人の行く世界を左右すると説かれています。『霊界物語』には、
「人間は肉体のあるうちに、一つでも善い事をしておきたいものだなア」と示されています。
日々何を愛し、何を願い、どのような心で生きていたか。その積み重ねこそが、死後の霊性を形づくります。
現界の人生は、永遠の生命から見れば確かに一瞬かもしれません。けれども、その一瞬の中で流した涙や、苦労に耐えた日々や、人のために尽くした真心は、決して無意味ではありません。むしろ、短い現界人生だからこそ、一瞬一瞬の選択がかけがえのない修養となります。限られた命の中で、何を思い、どう生きるか。
その問いに真摯に向き合うところに、現界という魂の「養成所」に生きる私たちの真の尊さがあります。
大本のお示し
精霊は人の肉体を機関として現界的に働く。死は精霊の霊界的活動に入るの一転機のみ。現界において得たる体験と知識は、霊界に入りて働くための唯一の資本なり。ゆえに人は死の瞬間まで修養せざるべからず。
ただし、現界と霊界とはその趣き大いに異なり、これをたとうれば、現界は歩行するごとく、霊界は飛行するがごとし。現界一日の活動は霊界一分の活動よりも小なり。ゆえに時間的にも、現界の一日は霊界の一分時にも当たらざるごとくに感ずるなり。ゆえに霊界一日の修養は、現界百年の修養にもあたる。いかほど現界において深遠なる体験と知識とを積むといえども、要するにこれは、どこまでも現界的のものにして、霊界に入りては物の数にもならず。(『信仰覚書き』第一巻 出口日出麿著)
御心配なさいますな。霊界の一日は現界の一年に当ります。あなたはまだ霊界より見れば一分間も経つてをりませぬ。十時間もたつたやうに思はれたのは、現実界の反映でせう。また霊界には時間もなければ空間もありませぬ。まして天国には秋冬もなければ夜もない。ただ情動の変化があるのみです。すべて霊界は想念の世界ですから、時間などは問題にはなりませぬ。マアゆつくりと私に従いて、天国の諸団体を巡覧なさるが宜しからう(『霊界物語』第四十七巻 出口王仁三郎著)
マアそんなものだ。吾々は天人たるべき素養を持つてゐるのだが、肉体のあるうちに天人になつて、高天原の団体に籍をおく者は極めて稀だ。今の人間は、大抵みな地獄に籍をおいてゐる者ばかりだ。少しマシな者でも、漸くに精霊界に籍をおくくらゐなものだよ。この精霊界において、善悪正邪を審かれるのだから、もはや過去の罪を償ふ術もない。アア、これを思へば、人間は肉体のあるうちに、一つでも善い事をしておきたいものだなア(『霊界物語』第四十七巻 出口王仁三郎著)
朝に道を聞けば夕に死すとも可なり、と云ふ事は霊界への道の事である。即ち霊界の消息に通ずれば、わが霊のゆくべき道がわかるので、これさへハツキリ分つて居れば、いつ死んでもよいと云ふ事なのである。もし霊界の事を些しも知らねば其人の行手には唯暗黒があるばかりである。恐ろしいところに迷はねばならぬ。故に現界に居る時によく道を聞いておかねばならぬ。霊界百年の修行は現界一日の修行に如かず、と云ふ諺があるが、それはその筈で、其のかはり霊界は長い。現実界の命は短いから同じである。猫でも犬でも齢の短いものは早く子を生み早く死ぬ道理だから、霊界の百年は現界の一日にあたる。(『玉鏡』 出口王仁三郎著)
東海教区特任宣伝使 前田 茂太
