「心臓はただのポンプではない」

大本神苑春霧

心臓の中に、もうひとつの「神経の網」がある

胸に手を当てると、規則正しい鼓動が伝わってきます。

古来より、心臓は単なる臓器以上のものとして語られてきました。喜びや悲しみ、愛しさや恐れ――人の心の機微を「胸が痛い」「胸が熱くなる」と表現するのは、洋の東西を問いません。それは単なる詩的な比喩に過ぎないのでしょうか。あるいは、そこにはまだ見えにくい真実が潜んでいるのでしょうか。近年の神経科学は、その問いにそっと光を当てはじめています。

カナダの神経心臓学者J・アンドリュー・アーマー博士は1990年代初頭、心臓内部に独自の神経細胞ネットワークが存在することを示しました。
「内在性心臓神経系(ICNS)」、いわゆる「心臓のミニ脳」の発見です。人の心臓には約四万個ものニューロンが宿り、脳からの指令を待たずに拍動のリズムを自ら微調整しながら、脳と絶えず「対話」を続けているといいます。



この科学的事実は、大本のみ教えである内流という概念と、深く響き合います。

大本の教えでは、人間は単なる肉体的な存在ではなく、霊界から絶えず流入する霊的エネルギー「内流」を受けて生かされている「一つの生きている管」であると説かれています。

出口王仁三郎聖師は、この「内流」が肉体の諸器官に及ぶことで初めて生命活動が営まれるとし、特に精霊(たましい)と心臓との間には「内的交通」という密接な霊的絆があることを、次のように示されています。

「精霊と呼吸および心臓の鼓動との間に内的交通なるものがある。そは精霊の想念とは、呼吸と相通じ、その愛より来る情動は、心臓と通ずるゆゑである。それだから肺臓、心臓の活動が全く止む時こそ、霊と肉とがたちまち分離する時である。肺臓の呼吸と心臓の鼓動とは、人間の本体たる精霊そのものを繋ぐところの命脈であつて、この二つの官能を破壊する時は、精霊はたちまち己に帰り、独立し復活し得るのである。かくて、肉体すなはち精霊の躯殻は、その精霊より分離されたがゆゑに、次第に冷却して、遂に腐敗糜爛するにいたるものである。」
人間の精霊が、呼吸および心臓と内的交通をなす所以は、人間の生死に関する活動については、全般的に、また個々肺臓、心臓の両機関によるところである。」
「心臓の鼓動が全く休止するまで、精霊がその肉体より分離せない理由は、心臓なるものは、情動に相応するがゆゑである。すべて情動なるものは、愛に属し、愛は人間生命の本体である。」
「人間はこの愛によるがゆゑに、おのおの生命の熱があり、しかして、この和合の継続するうちは、相応の存在あるをもって、精霊の生命なほ肉体中にあるのである。(『霊界物語』第四十七巻 出口王仁三郎著

大本において「愛」とは、万物を生成化育させる神さまの根源的な活力そのものです。心臓は、霊界から内流してくる神さまの「愛の情動」をまっさきに感受し、全身の細胞へと生命の熱を伝える霊的中枢としての役割を担っています。

心臓に備わった「独自の知性」は、まさにこの目に見えない「内流」を全身へ届けるための、精妙な仕組みであると言えます。私たちが喜びや感動に胸を熱くするとき、それはただの生理現象ではなく、霊界から内流する神さまの「愛」のエネルギーが、心臓という「生命の命脈」を通じて肉体へと響き渡っている瞬間なのかもしれません。

脳死は人間の「個体死」ではない

現代医学では脳の機能停止をもって「脳死」とし、個体死とみなす議論があります。しかし大本の教えは、この見方に対して、きわめて慎重な立場を示しています。

大本における「人間の死」とは、肉体から精霊(霊魂)が完全に脱離した状態を指します。
霊魂の観点からすれば、脳死はあくまで「脳という部分の死」にすぎません。人工呼吸器によって酸素が供給され、心臓が拍動し体温が保たれている状態は、精霊がいまだ肉体と「内的交通」を保ち、そこに留まっていることを意味します。

聖師は、「心臓の活動が全く止む時こそ、霊と肉とがたちまち分離する時である。」と説いています。

心臓が動いている間、その人の精霊は細い霊線で肉体とつながっており、この絆が完全に断たれるのは心臓が止まった瞬間です。

霊魂の移植

近年、心臓移植を受けた患者に、ドナー(提供者)の嗜好や性格が移るといった「細胞記憶」の現象が報告されていますが、大本ではこれを精霊と肉体を結びつける「魄(はく)」の働きとして説明しています。

「魄」とは、魂を肉体に定着させる接着剤のような存在です。大本では心臓移植とは、単なる筋肉の移植ではなく、ドナーの「魄」や霊線がなお繋がったままの心臓を他者の体内に移す「霊魂の移植」と捉えています。

これにより、移植を受けた人の体内にドナーの霊的性質が流入し、性格の変化を引き起こします。それのみならず、霊的には「一つの肉体を二つの霊魂が共存する」という極めて不自然な状態をも招くと考えられています。

また、心臓が動いているうちに臓器を提供したドナーの霊魂もまた、安穏ではいられません。死後の世界(霊界)において、自らの分身(心臓とそれにつながる霊的要素)が他者の体内で活動し続けているために安らかな旅立ちを妨げられ、「霊体の欠損」や「迷い」という深刻な苦痛を抱えることになると、大本は説いています。

臓器移植が問いかけるもの

心臓移植を「愛の行為」とする風潮もありますが、拍動する心臓を摘出することは、霊魂の視点からは看過しがたい問題をはらんでいます。

まず、心臓がなお動いている状態でそれを摘出することは、霊的にはその人の命脈を強引に断つ行為に等しいと考えられます。また、霊線でつながったままの心臓を他者の体に移すことは、ドナーの精霊の安らかな旅立ち(霊界復帰)を妨げるだけでなく、他者の肉体に精霊が共存するという、きわめて不自然な状態を招きかねません。さらに、無理に臓器を摘出された精霊は、霊界において迷いや欠損の状態を抱えることになると、聖師は警告しています。

これらは決して単なる否定ではなく、大本の教えが現代の私たちに「生命の本質」を問いかける、深い慈愛のメッセージとして受け取っていただければと思います。

胸の鼓動に耳を澄ます

大本の教えは、私たちの肉体が「神の子、神の宮」としての尊厳を備えていることを伝えています。肉体は精霊が一時的に用いる「衣服」や「居宅」にすぎませんが、その一部である心臓には、神さまが人間に与えた尊い生命の火が灯っています。

夜半、静かに心臓の鼓動に耳を傾けると、そこに神さまの存在を感じることができます。
心臓の鼓動は単に血液を送り出しているだけではなく、霊界から神さまの愛の情動を受け、いのちの全体を支えようとしている、静かな営みの表れです。
大本の教えでは、「人間の本体は肉体ではなく精霊(霊魂・心)であり、肉体は一時的な居宅や衣服にすぎない」と説いています。

しかし、その「衣服」である肉体と「本体」である精霊は、決して無関係に存在しているのではなく、両者の間には「内的交通」と呼ばれる密接な霊的交流があります。

科学もまた、心臓がもつ深い働きに少しずつ目を向けるようになっています。その営みに触れるとき、私たちは生命への畏敬の念を深めずにはいられません。大本の教えにおいて、心臓は単なる血液のポンプではなく、肉体と精霊をつなぎとめる命脈です。

休むことなく脈打つその鼓動は、私たちが霊界からの内流を受けて生かされている、何よりの証と言えます。

近年の科学が解き明かしつつある「心臓独自の神経ネットワーク(心臓のミニ脳)」という知見は、まさにこの目に見えない精霊と肉体をつなぐ「内的交通」の仕組みを、物質の側から証明しようとしているかのようです。

参考:Armour JA, “The little brain on the heart”(Cleveland Clinic Journal of Medicine, 2007)ほか

東海教区特派宣伝使 前田 茂太