「孤独な時代を救う霊界との通信」

大本神苑船

私たちの「孤独」

私たちの周りには、かつて夢物語だと思われていたテクノロジーが溢れています。AI(人工知能)は日常のパートナーとなり、VRやメタバースの普及によって、物理的な距離を超えて誰かと「会う」ことも、もう珍しいことではなくなりました。

しかし、デジタルの糸で世界中と瞬時につながることができるようになった一方で、私たちの心は、かつてないほどの「孤独」や「不安」に苛まれているようにも思われます。 画面越し、ゴーグル越しのつながりが増えるほど、かえって「魂の触れ合い」に飢え、自分自身の存在意義が揺らいでしまう――。

そんな現代特有のメンタルヘルスの課題が語られる今だからこそ、改めて見つめ直したいのが、18世紀の科学者であり、霊能者でもあったエマヌエル・スウェーデンボルグが説いた「霊界通信」という考え方です。

「思いの一致」こそが真の通信

スウェーデンボルグは、自身に「内的視覚」が開かれ、霊界の霊や天使と直接語り合った体験を、膨大な著作に残しました。

スウェーデンボルグは、霊と人間との通信は、単なる言葉のやり取りではなく、「思いと愛の状態の一致」によって起こる、魂の共鳴現象と霊的交感という通信の原理だと述べています。

宇宙には絶えず、巨大なストリーミング配信のように、良い情報も悪い情報も流れ続けています。しかし、心の受信状態が整っていなければ、どれほど質の高い情報が届いていても、その内容を再生して受け取ることはできません。逆に、心の周波数が乱れていると、望ましくない情報ばかりを拾ってしまうことになります。

どれほど高性能なスマートフォンを手にしていても、私たちの「心」という受信機が曇り、波長が乱れていれば、本当に大切なメッセージを受け取ることはできないのではないでしょうか。

現界は霊界の「ウツシ世」

このスウェーデンボルグの洞察は、出口王仁三郎聖師が示した宇宙の真理と、驚くほど深く響き合っています。

大本のみ教えでは、霊界が主、現界が従とする「霊主体従」が、宇宙の根本原則であると説いています。私たちが生きているこの現界は、霊界の表象であり、映像であり、見本――いわば「ウツシ世」です。
霊界が「想念の世界」である以上、私たちの心の持ちよう、すなわち想念は、そのまま霊界に影響を与え、また霊界からの影響を呼び込むことになります。

気分の変化もまた、霊の変化によって起こるものです。
私たちが「われよし」の心に支配されている時には、それ相応の低い霊界とつながり、逆に「愛善」の心で満たされている時には、天国的な清らかな霊界に浸ることができます。

不思議に捉われない「常識的な信仰」

ここで、一つ大きな注意を払っておかねばなりません。 精神的な充足を求めるあまり、安易に「スピリチュアル」な現象や、好奇心による「交霊術」に手を出してしまう方が増えているように見受けられます。

しかし、スウェーデンボルグ自身、好奇心から交霊を求めることには、極めて批判的でした。大本のみ教えでも、この点は厳しく戒められています。出口直日三代教主は、霊覚者の言葉であっても鵜呑みにせず「理性的に判断し、努力を傾けて解決したい」(『こころの帖』)と述べ、そこに慢心が生じれば、たちまち自分自身も家庭も不幸にしてしまうと警告しています。

また「霊眼がみえるといっても、霊界のごく一小部分を見せられているにすぎません」(『こころの帖』)とも警告しています。

大本では、霊的なこと、人間の理屈で説明できない不思議なことは、あって当たり前だと説かれています。それをいつまでも珍しがっているのはおかしい、と考えられています。本当の信仰とは、不思議な奇跡を追い求めることではなく、改心によって、自分自身の心のあり方を正していくことに他なりません。

では、私たちはどのようにして「心という受信機」を磨いていけばよいのでしょうか。

その鍵は、スウェーデンボルグが「主・天使を通じて人間の理性と良心に働く霊的インスピレーション」と呼んだもの――大本でいうところの「内流」にあるように思います。 内流をいただくのに、特別な修行が必要なわけではありません。

日々の生活の中で自らを省みることを続けていくのが、何よりの近道となります。
「今の自分の言葉は、相手を傷つけなかったか」
「自分の行動の動機は、本当に愛善に基づいているか」

――そう常に自らの心を吟味し、埃を払っていく。これが大本の説く「身魂みがき」です。

出口王仁三郎聖師は、「赤児のようなすなおな心が、一番、神の気に入る」と説いています。

絆は「霊界」でも消えない

人間の肉体が滅びても、その人の本体である精霊は永遠に生き続けます。

意念も愛情も記憶も、みな個性の各部分として、不変不動のままに残るものであり、死とは単に所在と立脚地とを変更したまでに過ぎません。

親子の絆や夫婦の愛情は、現世と霊界の隔たりを超えても、決してなくなることはありません。

私たちの心は、いわば「巧妙な受話器」のようなものであり、亡くなった方との間には、目に見えない霊線が常に通じています。

このことを何よりも雄弁に物語っているのが、東日本大震災という未曾有の悲しみに見舞われた被災地の方々の体験ではないでしょうか。

このことを何よりも雄弁に物語っているのが、東日本大震災という未曾有の悲しみに見舞われた被災地の方々の体験ではないでしょうか。
岩手県陸前高田市で兄を津波で亡くされた熊谷常子さんは、ようやく発見されたご遺体の死亡届を役場で書いていた、まさにその最中に、津波で壊れて使えないはずの兄の携帯電話から、「ありがとう」とだけ記された一通のメールを受け取ったといいます。偶然と呼ぶこともできるかもしれません。けれども熊谷さんにとってそれは、たとえ魂だけでもいいから会いにきてほしい――そう願い続けた思いに、亡き兄が確かに応えてくれた瞬間だったのではないでしょうか。
ノンフィクション作家・奥野修司氏が丹念に集めた証言(『魂でもいいから、そばにいて』新潮社)には、こうした「亡き人との再会」ともいえる体験が数多く記録されています。

霊界からのメッセージは、時に霊として直接的に、あるいはふとした瞬間に心に湧き上がる内流や直感という形で、私たちに届けられています。人の何げない話の中に、霊界からの声がさしはさまれていることもあります。

現界にいる人の意志想念は、天国にも通じます。故人を思う温かな心は、その霊線を通じて、そのまま「あちらの世界」の家族に届いています。

善言美詞を心がける言葉づかい、そして何より、今日一日を神さまに預けて楽しむ「楽天」の心。これら一つひとつの小さな実践を積み重ねたとき、私たちの心の受信機は最高感度となり、その温かさは大切な家族のもとへも確かに届いていきます。

そして同時に、日常の些細な出来事や周囲の言葉を通じて、大切な家族もまた、今なお私たちに語りかけてくれているのではないでしょうか。

東海教区特任宣伝使 前田 茂太