現代を生き抜くための「魂の視点」

大本神苑春

現代に生きる「魂の視点」

現代は、タイパや効率性がいっそう重視され、膨大な情報の中に私たちは日々さらされています。

成果や能力で人の価値が測られがちな時代にあって、心の奥底にある「漠然とした不安」は、なかなか消えるものではありません。

「自分は何のために生きているのだろう」――この根源的な問いに対し、大本の教えは確かな視点を示してくれます。

魂を磨き、惟神に生きる―

大本の教えが目指すのは、神さまのみ心のままに生きる「惟神」の生き方です。

過去の悲しみや悔しさをきっぱりと手放す——このシンプルな「人生の努め」こそが、信仰の根本といえます。

私たちは何のために生まれ、どこへ向かうのでしょうか。大本の教えでは、人生の目的を「魂(心)を磨き、神意にかなう人間へと成長すること」としています。

現界での生活は単なる偶然の連続ではなく、トラブルや悲しみ、理不尽な状況でさえ「魂の磨き砂」として神から与えられた成長の機会と捉えることができるのではないでしょうか

出口王仁三郎聖師は、

「信仰していて、いろいろと苦労が出て来た場合、それは結構なことである。それによって罪のつぐないが出来るし、お蔭である。そんな時には、その苦労をすべて神様にお供えして忘れてしまえ」

と示しています。

「結構」という言葉には単なる肯定を超え、苦労そのものが魂の成長の契機となるという深い意味が込められています。

また大本の死生観においてとくに重要なのは、「死後の世界は想念がすべてを支配する」という教えです。
現世での肉体は精霊(霊魂)が一時的に用いる「居宅」にすぎず、肉体が滅んだ後の魂が進む先を決めるのは生前に培った「想念」です。それゆえ信仰とは単なる形式ではなく、自らの想念を整え、生死を超えた霊的視点を持つために不可欠なものとされています。

こうした教えが示す理想の生き方が、「惟神(かんながら)」という言葉に象徴されています。すべてを神さまのみ心にゆだねてお任せし、常に心を平静に保ち、愛善の誠をもって他人の幸せを祈ること。

苦労は神さまにお供えして手放し、取り越し苦労や過去の悲しみを思い返すことをやめ、楽しかったことだけを胸に、世界人類に対して誠を尽くすこと――このような心の持ち方と日々の実践こそが、大本の教えの示す「人生の努め」であり、真の幸福への道ではないでしょうか。

科学と信仰は対立しない

「目に見えないものは信じられない」という考えは、現代ではひとつの常識のように受けとめられています。しかし大本の教えでは、科学と信仰は本来対立するものと捉えていません。

出口日出麿尊師は『信仰覚書』の中で、「現代の科学をさえ包容できぬ宗教は迷信である」と明言したたうえで、科学はいまだ未熟であり仮説に満ちているものの、その当否を霊学上から判断できないようでは真の宗教とはいえないと示しています。

また、『信仰覚書』の中で、人類が宗教的迷信に禍されてきた反省から自らの力に頼り始めたことにも言及し、「地に住む人間というものを納得さす方便として、神さまは科学というものをお与えてくださっている」とも述べています。

科学とは神さまが人間にお与えくださった、日々の暮らしを支える道具です。たとえば医学や生命科学の進歩は、かつて「神の領域」とのみ受けとめられていた病や生命の神秘を少しずつ解き明かし、苦しむ人々を救う力となってきました。

しかしそれでもなお、科学は万能ではなく、意識とは何か、生命はなぜ生まれるのか、宇宙はなぜ存在するのか――いまだ解明できない根源的な問いは尽きません。

かつてアインシュタインは、
「科学を真剣に追究している者は誰であっても、宇宙の法則の中に神の霊が顕在していることを確信するに至るのです。神の霊は人間の霊をはるかに凌いでおり、神の霊を前に人間は自らの力のささやかなることを知り、謙虚にならざるを得ないのです」と述べています。

人知を超えた存在への謙虚な姿勢が、私たちにも求められているように思われます。

肉体は「魂の衣服」にすぎない

現代社会に広がる利己主義や「強い者勝ち」の価値観は、人間を単なる肉体や脳の機能として捉えることから生まれる部分があります。しかし大本の教えでは、「人間の本体は肉体ではなく、精霊(魂)である」と示しています。

肉体はあくまで、精霊が現界で活動するための、いわば「衣服」にすぎません。

認知症や脳の機能低下によって「その人らしさ」が失われたように見えても、本体である精霊が衰えることはありません。障害や病という境遇もまた、魂を磨くための場であり、生命そのものの価値を損なうものではないのです。

「慢心」という落とし穴

どれほど善行を積み、信仰を深めても、私たちは常に「取り違い」と「慢心」という二つの罠に注意しなければなりません。取り違いとは、教えを自分に都合よく解釈し、「利他」のつもりが「自己満足」にすり替わっている状態です。慢心とは、自分の信仰が他より優れていると思い込み、学びを止めてしまう心の状態といえます。

出口日出麿尊師は、「慢心というもののいかに恐ろしいものであるかということを悟らしていただきました。何事をするにも、決してこれに執着や名誉心などを抱いていてはいけません。ただ、その時その時を、赤子のような心になって生かしきればよいのだと思います」(『信仰覚書』第八巻)
と示しています。

「自分は正しい、あの人は間違っている」という裁きの心は、魂の成長を止める最大の障害です。

常に真っさらな心で自分を省みる謙虚さこそが、神さまのみ心にかなった歩みへと私たちを導いてくれるのではないでしょうか。

「想念」が霊界を形作る

死後の世界(霊界)において、もっとも大切なものは肩書きでも財産でもなく、現世で育んできた想念であると大本は教えています。

想念がすべてを形作る世界だからこそ、今この瞬間の心のあり方を整えることが大切になります。

今この瞬間の想念が、永遠の霊的成長の一部であるという広い時間軸を持つことが、絶望に打ち克つ力となるように思われます。

東海教区特派宣伝使 前田 茂太