真正の親切
「親切」と聞いて、どのような姿を思い浮かべるでしょうか。困っている人を助けること、優しく声をかけること――それは確かに親切な行いです。けれども、大本の教えや日本の古典に伝えられてきた精神は、さらに一歩踏み込んだ「真の親切」について語っています。
出口なお大本開祖のお筆先には、次のように記されています。
「自己の行が出来て居らんから、他を悪口言うのが、一番神は気に損るから、悪い事は親切があるなら蔭で申さんと、当人に気を付けてやるのが、真正の親切である。」(『おほもとしんゆ』第四巻)
人はつい、他人の欠点や過ちを影で口にしてしまいがちです。しかし、それでは何も解決せず、むしろ神さまの御心に背くことになります。真の親切とは、ただ見過ごしたり陰で批判したりすることではありません。
大切なのは、失敗を責めることではありません。悪いことは悪いと正しく伝えながらも、相手が再び歩み出せるように寄り添う心です。その思いをもって勇気を出し、必要なときには相手に正直に向き合い、過ちを諭しつつも立ち直りを支えて正しい道へと導いていく――
そこには、裁く心ではなく支える心が求められています。
けれども、人に意見をするということは容易ではありません。まず第一に、相手がこちらの忠告を受け入れる心の準備があるかどうかを、よく見極めなければなりません。そして、さらに親しく心を通わせ、日ごろの言葉に信頼を寄せてもらえるよう、相手に誠意を尽くしておくことが大切です。
「悪夢に酔っている人」への眼差し
出口直日大本三代教主の『寸葉集』には、さらに深い言葉が残されています。
「その人が、悪夢に酔っているとみた時は、眼を醒まされるようにつくしてあげることで、そうしないと双方の霊魂の永遠の悔いをのこすことになりましょう。」
これは、相手の魂を救おうと願う強い慈悲の心です。人生を誤った方向に進もうとしている人を前に、見て見ぬふりをすることは、相手のためにならないばかりか、自らの魂にも悔いを残します。
「誰かが気付いて注意してくれるその時が、方向を変えるよい潮時なのです。」
この言葉のように、勇気ある忠告は、その人にとって人生を変える大きな転機となります。
『葉隠』に見る「大慈悲」の精神
江戸時代の武士道を記した古典『葉隠』にも、同じ精神が説かれています。
「人に意見(忠告)をして、疵(あやまち)を直すと言ふは、大切なる事にして、然も大慈悲にして、御奉公の第一にて候。」
ここでいう「意見」とは、ただ批判することではありません。相手を思い、その人生をより良いものにしようとする大慈悲であり、武士にとっては社会や主君への第一の奉公であるとされました。
時代や立場は違えども、過ちを正すことが深い愛の表れである――その点で、これらの教えは共通しています。
現代に生きる教え
これらの教えは、決して「他人を厳しく責めよ」と勧めているのではありません。
それは、相手の魂の向上を願い、互いに高め合う愛の実践にほかなりません。
嫌われるのではないか、伝えるのは難しい――そう感じる場面もあります。けれども、それでもなお真の親切を尽くすことこそ、信仰を持つ人間に求められる心構えです。
人間は一人ひとりが神さまの分霊をいただいた尊い存在です。
互いの魂を大切に思い、勇気と愛をもって、人を、そして社会をより良い方向へ導いていく。これこそが、大本の教えが示す「真の親切」の道です。
大本の教え
自己の行が出来て居らんから、他を悪口言うのが、一番神は気に損るから、悪い事は親切があるなら蔭で申さんと、当人に気を付けてやるのが、真正の親切である。(おほもとしんゆ 第四巻)
大本は筆先にある通り、世の中が至粋至純であれば、神様の教は要らぬのであります。世が乱れて、人々が互に悪み・妬み・謗りなどする世の中となって居るからして、中にも日本人はそんな癖が多く、所謂島国根性であって、外国からも探偵気分が多いと言われる状態で、他人の非を探すことを痛快事と考えるような僻があるのである。他人の悪いと思う所は、直接其人に忠告をし、決して他人の非を言わぬに限るのであります。(『出口王仁三郎著作集』 第二巻)
人のことながら、これでは、よくないのではないかと、気づいたことがあっても、個人の私ごとにまで口ばしを入れるものではないと遠慮して、かえって失敗することがあります。他のこととはともかく、その人が、悪夢に酔っているとみた時は、眼を醒まされるようにつくしてあげることで、そうしないと双方の霊魂の永遠の悔いをのこすことになりましょう。誰かが気付いて注意してくれるその時が、方向を変えるにいい潮時なのです。(『寸葉集』巻一 出口直日著)
物事や人に対しての好悪の念は、守護神や境遇や修養の関係上、地上の吾々には多少はまぬがれ難いものではあるが、しかしそこをよく注意して、吾々はあくまでもこの世一切のものに対して、根本において好意をもつように努力し、省みねばならぬ。
ものを毀す場合でも、人を叱る場合でも、好意をもってするのと、ただ単に憎しみをもってするのとでは、その間に天地の差があるのである。(『信仰覚書』第七卷 出口日出麿著)
いかなる場合にも、他人の人格を損傷するような言行は、よくよく注意して避けるようにせねばならぬ。愚頑な人に対しては、なおさらのこと注意して、なるべく相手を喜ばして、共どもに手を引き合うて行くようにせねばならぬ。
彼らはちょっとしたことにも腹を立て、妬みそねむことを敢えてしがちなものであるから、よくよく注意せねばならぬ。(『信仰覚書』第八卷 出口日出麿著)
東海教区特派宣伝使 前田 茂太
